Art Works Ushio Sakusabe サクサベウシオ

FLOATING THE ARC 2004

浮円弧 2004
Zeit・青森+青森外の芸術家達展 / 国際芸術センター青森/青森市、青森県
鉄筋、自然石、ステンレスワイヤーロープ、針金
h6m × w6m × d9m

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  • 浜田剛爾 氏

サクサベウシオの作品への感想 ―自然へ―
美術家・国際芸術センター青森 館長
浜田剛爾

 

サクサベウシオが自らの作品について書かれたメモを引用すると、〈重力〉とのバランス、としるされている。

結果そこに自然の法則を認識するためとも。こうした科学的認識とも言える感覚は20世紀美術の特徴の一つだが、サクサベもまたそれに魅了されたのだろうか。

しかし認識論は他方で“我思うゆえに我あり”としたデカルトによってきわめて人間中心主義的なぞ存在の理由を問いかけたものでもあった。

私の感覚を優先させるならサクサベの作品にはどちらかというと純粋な物理的法則よりも人間主義的認識論に従っているようにみえる。

むしろその物理的な感覚を内包する物性の微分性を極限まで押し広げようとする意思がある。20世紀初頭に現れた機械のメカニズムがもつ合理的美しさと同様の印象を私は感じていた。

それを〈重力〉というならばむしろサクサベの作品は〈反重力〉(=人間主義)といってもよい。

その拮抗がたぶん作品を存在させる最初の動機ではあるまいか。2004年の雪の季節にサクサベはそのいかつくも又どこか坦々とした態度で青森市の郊外の森の中にある国際芸術センター青森に現れた。

「ツァイト」展―青森の+県外の芸術家たち展に出品するためである。かって私は1996年にハンブルグ市で開かれた{移行}と題した日本の現代美術展でサクサベと一緒だったことがある。

空間に細いピアノ線を支えにしてたくさんの石を吊るした作品をサクサベはつくっていた。

それは「作品」というある種独立した形式を持っていると同時に、大小様々な石が隣接する他の作品に対し覆いかかるような印象であった。

引用の解釈を拡大すれば宇宙のかなたで爆発した星雲が飛散し続ける図像をも感じ取るものであった。ただ奇妙なことにそのときの私の感覚の残像はむしろ空間に無数に張りめぐらされたピアノ線に向かっていたことを思い出す。

この空間の中の“線”こそがサクサベが本体の意味での芸術家であることを確信している。

そうした思い出をサクサベに直接話したことはなかったが、国際芸術センター青森での仕事のスケッチを見た瞬間に再び当時の光景がよみがえった。国際芸術センター青森の展示空間は文字通り現代美術のためにしつらえたホワイト・キューブである。その一角、Bギャラリーと呼ばれる役90?の空間がサクサベの作品発表の場となった。

高さ6mでややスクウェアな白い壁と一方をを全面窓となっている空間にサクサベはまず最初の線を引くことからはじめた。すなわち一枚の紙そのものが空間を意味しているという点で一本の線がスケッチされたのである。

単純で美しい弧を描く線である。やがてサクサベウシオはその描かれた一本の線の上に一個の石をのせようと試みはじめた。

宙に浮く石のイメージである。線は鉄でできており〈存在〉は石である。描かれ実体化された構成を言い表すと実にシンプルである。

描かれた図形と実態としての作品が、これほど破端なく同一のイメージをつくりあげている感覚は前述したようにきわめて物理的かつ構造的である。

空間と物体の距離や質量を正確に測定したわけではないのだが、そのズレはほとんどなく無謬でさえある印象であった。

かって彫刻家の篠田守男はその多くの作品に「テンション アンド コンプレッション」と名づけたがサクサベの作品は(あえて作品とここでは呼ぶが)には作品の固有の緊張性を与えているというよりは空間そのものに対する緊張性をつくりあげているように思われた。

厳密に計算された作品と空間の関係を言い表すと以下のようになる。長さ9mの鉄の棒をつくるため100本の直径10mmの鉄の棒をつなぎあわせ、重さ25キロの石を鉄の棒と共に宙に吊るすために用いたワイヤーは25本。作者が言うように作品の大きさは高さ6m幅8m横9mである。

ちょうどBギャラリーのサイズと同一であり、例えれば空間を量とすれば同一のサイズの作品は質を表していることになろうか。

こうして完成した作品は空間の美しいドローイングとして国際芸術センター青森の数々の展覧の中でもひときわ美しい印象を与えることになった。とはいえこの作品の完成形を見たのは観客の中でも一握りの人々にすぎなかったことも確かである。

なぜならばサクサベは作業の厳密さに熱中するあまり作品は展覧会の会期中つくり続けられていたからである。

それはまた偶然にも作者の意図ではなかったにせよ作品が生成するプロセスを逆に多くの観客は目にすることになったともいえよう。

未完から完成を予測するのは作者の心の動きを発見することや技倆を学ぶ点で新しい発見と体験を観客は記憶に持ち帰っていくのである。もちろん作品は展覧会のオープニングと同時に人々に提示されることが望ましいことはいうまでもない。

だが時として〈偶然〉が作者の本質的な意図を巧まずして表現することがあるのなら、それも叉一つの理解の作法でもあるだろう。文学的に言えば〈重力〉は完成を予知し〈反重力〉は人間性を表出させるのである。

その二つが拮抗しながらサクサベの存在を作品は象徴するのである。作左部潮はこれまでほとんどの作品の素材に石を用いている。それも自然石である。そこにあるのは自然こそが存在の最終形であることへの無意識の作為というものだろう。

結局は〈重力〉の概念の〈反重力〉の作用も人間がつくったものとすれば、サクサベウシオの作品の眼に見えない彼方には、自然を手本としたセザンヌの科学的視座やモネの網膜的分析にも似た精神が重なり合っているように私には思えてならない。

自然こそ近代の科学なのだと。

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